さて、今日も玄関先に水を撒いていると、隣のおばちゃんがひょこひょこと顔を出して、
「暑いのぉ。水まくと少しは違うのぉ。」
と始まる世間話。
その内に、
「それにしても、毎朝の、とんでもないことやなと目が覚めるんやぁ。今日も命くんなさった(くださった)なぁと。今日もまた生かしてくださるんやなぁと、おかげさんの毎日やなぁと、なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ とでてくんなさるんやわぁ。」
齢(よわい)90近くのおばあちゃん。その人生いろんなこともあったでしょう。戦争もあった。震災もあった。病気のこどもを数十年看病して先立たれたこともあった。言葉では語りきることのできない、若輩者の慈海には想像も及ばないご苦労がたくさんたくさんあったと思います。
そのおばあちゃんの口から
「お念仏だけやのぅ」
と言わしめるのは、一体何なんでしょう。
今日のおばあちゃんとの後生話(ごしょうばなし)は、阿弥陀経のお話になりました。
阿弥陀経とは、正式には「佛説阿弥陀経」といい、「小教」とも略されます。このお経は、舎衛国(しゃえこく)の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)でお釈迦様が説かれたお経ですが、誰かの問いを待たずしてお釈迦様が自ら説かれた(無問自説)といわれており、またお釈迦様の説法の結びの教(一代結経)とも言われているお経です。
この阿弥陀経では、
極楽浄土のうるわしいありさまと阿弥陀仏や聖者たちの尊い徳を示される。次に、この浄土には自力の善では往生できないのであって、一心に念仏することによってのみ往生することができると説かれ、終りに、この念仏往生の法が真実であることを、東南西北・下方上方の六方の諸仏が証明しお護りくださることが述べられているそうです。(WikiArc:仏説阿弥陀経 の説明より)
さて、この阿弥陀経には、「舎利弗(しゃりほつ)」という言葉が三十八回出てきます。隣の家のおばあちゃん、このことに触れて
「なんでこんなに舎利弗さんがようけ(たくさん)出てきなさるんやろ。お釈迦さんの第一のお弟子さんらしいけど、こんだけ出てくるってことはよっぽど大事なことなんやろか。」
と質問されました。田舎の念仏者のばあちゃんは、時折ホントにとんでもない質問をされてきます。僧侶泣かせです。
慈海はこう答えました。
「そやのぉ、そりゃそうやろ、こんだけ名前を呼ぶってことは、よっぽどのことやろうねぇ。それもね、この舎利弗さん、こんだけ名前を呼ばれているのに、いっぺんも返事をしてないんやよ。お師匠様が名前を読んでるのに、返事ひとつもしないなんて、ありえんよねぇ。でもね、それがありがたいところなんやと、慈海は聞かしてもろてるんや。」
阿弥陀経には、お釈迦様が舎利弗に何度も何度も語りかけています。ですが、舎利弗はいちども返事も質問もせず、ただただ黙って聴いているだけなんですね。普通であれば、師が名前を呼べば返事くらいするもんでしょう。しかし、ただの一度も舎利弗は返事していない。
「それはきっと、返事したくても出来んかったんやろうなぁ」
そう示してくださったのは、慈海の師でした。
「これはな、舎利弗に言うてるんやないんやろな。お釈迦さんは、時空を超えて、今の人に聞かしてくださってるんやろうな。このお経はな、このお経はただの昔話として読んだらアカンのやろうな。将(まさ)に今のお前に話して聞かせてくださってるお話やと思って読んでみ。舎利弗と書いてあるところを、慈海と読み替えて読んでみぃ。」
私風に言えば、舎利弗は代表者なんでしょうね。佛のお話を聞く代表者として、お釈迦様は第一のお弟子さんであった舎利弗の名前を呼びながら、お話をされたのでしょう。このことを思い出して、おばあちゃんへは、このように続けてお話しました。
「お釈迦さんは、2500年前のお方やから、もちろんおばちゃんの名前知らんから、しょうがなく舎利弗さんの名前を借りて、お説教されてるんやろうねぇ。おばちゃんの名前を何度も何度も何度も繰り返して、聞かせようとしてらっしゃるお経さんやよ。おばちゃんさっき”こんだけ名前を呼ぶってことは、よっぽどのことやろうねぇ。”と言ってたやろ。つまり、おばちゃんのことがよっぽど大事なことだから、なんどもこうやって呼んでくださってるんやろうねぇ。」
舎利弗、なんぢが意においていかん。なんのゆゑぞ名づけて一切諸仏に護念せらるる経とするや。舎利弗、もし善男子・善女人ありて、この諸仏の所説の名および経の名を聞かんもの、このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得ん。このゆゑに舎利弗、なんぢらみなまさにわが語および諸仏の所説を信受すべし。
舎利弗、もし人ありて、すでに発願し、いま発願し、まさに発願して、阿弥陀仏国に生ぜんと欲はんものは、このもろもろの人等、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て、かの国土において、もしはすでに生れ、もしはいま生れ、もしはまさに生れん。このゆゑに舎利弗、もろもろの善男子・善女人、もし信あらんものは、まさに発願してかの国土に生るべし。(佛説阿弥陀経 示現当利益)
難しい言葉が並んでおりますが、これは
「お念仏しなさいな。お念仏を聞いて、極楽浄土に生まれておいで」
ということと、慈海は味わっております。時空を超えて、阿弥陀如来のお救いを、将に今の今、慈海に語りかけてくださっているお経。それが、佛説阿弥陀経なんだろうなぁ。
人間の一生は短い。佛さまからみたらほんの一瞬のことかもしれない。でも、そのほんの一瞬の中に、無数の思いが渦巻き、無量の悩み、悲しみを始めとした生まれ、生きて、死んでいくと言う苦しみが、凝縮されているのかもしれません。その一瞬だけれども無量の苦しみに対して、無量の世界から、「そのまま来いよ」の願いが届いている。
そこには、強く明るく正しく健康で幸せに生きたいと願い、願って、それでも願いきれぬ人の思いを包んで、 強く明るく正しく健康で幸せに生きていけない人の悲哀をそのまま、抱いて捉えて、極楽浄土に生まれさせようという、佛の願いが込められているのでしょう。
その、人の願いをはるかに超えた、佛の願いというものが、なもあみだぶつ という一言の言葉となって、今日もまた、隣のおばちゃんの口から、慈海の口から、無数の方の口から、飛び出てくださるのでしょう。
「お念仏だけやのぅ」
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ