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なんまんだぶ

2012年8月5日

浄土真宗は私の信心を必要としない。(「他力本願」の「他」はだれであるか?という話)

自分ではなかなか「自分はこれでいいんだ」なんて本当に思うことなんてできない。どんなに考えたって、どんだけ鏡に写した自分の姿を見たって、どんなに「これでいいんだ」と考えようとしたって、でもやっぱり、自分では「これでいいんだ」なんて、心の底から思うことなんてできない。

その慈海を「そのまま」と呼ぶ声がある。

慈海は、何も信じていない。坊さんになった今でも、佛を信じることなんてできない。極楽浄土というところがあって、死んだらそこに生まれるなんて、信じられるわけもない。もし、目の前に金色に光る佛さまが姿をあらわしてくださったとしても、この目で見たその光景を、信じることなんてできないだろうと思う。「幻覚を見ているのだ。おれはアタマがおかしくなったんじゃなかろうか。」そう思うことが関の山ではないかとおもう。

実際に、自分の目でみた世界というのは、本当にその世界が見えているわけではない、というのは、だまし絵を見れば分かるはずだ。人間は、自分が見たいものを見る。白いものを黒く見てしまうのが人間の脳みその構造だ。「あばたもえくぼ」ということわざもある。同じ夕焼けの空を同じ場所で同じ時間に見ていたとしても、その夕焼けの空の色を、黄色と答える人もいる。赤と答える人もいる。橙色と答える人もいる。紫と答える人もいる。青と答える人もいる。同じ物を見ていたとしても、人によってその見え方は違うのだ。


「自分を信じろ」という言葉をよく聞く。自分が見ている世界を、自分の思いを、自分の可能性を、自分という存在を信じろと、簡単に人は口にする。それは大事なことかもしれない。自分を信じることが出来る人は幸せだ。しかし、慈海にはどう頑張っても自分を信じることなんて出来るわけもない。

これを読んでいる人の中で「遅刻をしたことがない」という人はいるだろうか?誰でも遅刻をしてしまったことはあるだろう。遅刻をしていいわけがない。遅刻は相手の時間を盗むことでもある。人間社会で生きていく上で、特に日本社会では、遅刻をしないということは最低限守るべきマナーでありルールだ。

それでも、誰だって遅刻をしてしまったことはあるだろう。そして、遅刻をして、相手に迷惑をかけて強く反省したことはないだろうか。迷惑をかけてしまった相手に強く怒られて、「二度と遅刻はしない!」と心に誓った経験のある人も多いと思う。会社で遅刻をして「次遅れたらペナルティーで減給だからな」と言われても、それでもついつい前の夜に飲み過ぎてしまい、もしくは風邪気味で体調を崩し、もしくは連日の遅くまでの会議で疲れが溜まってしまい、翌日朝目が覚めて「やばい!」という思いをしたことがある人は多いんじゃないだろうか。

突然だが、ちょっと立ち上がって、立った状態で左手をピンと伸ばして真上に挙げてくれないだろうか?そして、その体勢でしばらく続きを読んでほしい。

この世の中で、最も信頼に足る人はだれであろう?信頼出来る人というのは、こちらの信頼に必ず応えてくれる人だ。こちらが願っていることを裏切らない人だ。こちらがオーダーしたことを必ず行動で実行してくれる人だ。

さて、立ち上がって左手を真上に挙げてくださっている方は、もう手を下ろして座っていただいて結構です。あなたは正直で素直な方。だからここで書いていることもきっと素直に読んでくださるにちがいない。もしここで言われたとおりに行動して、周りから変な目で見られたり、天井から下がっている電灯に手をぶつけてしまったり、もしくは「あら、じゃ、あなたにお願いね」と望んでも居ない役割を指名されてまったりしたことがあったら、ごめんなさい。

ところで、本当に立ち上がって、左手を上に挙げてくださった方というのはどれだけいらっしゃるだろう。あなたは、本当にそうしてくださいましたか?

他人を動かすというのは、とても難しい。動いてもらうためには、理由を説明し、動いてもらうことへの見返りを用意し、もしくは動いてくれない場合に罰を与えるなどの動機づけが必要になったりする。理由もなしに、見返りもなしに、懲罰もなしに、自由にコントロールできる人、それは、実は自分自身しか居ない。立ち上がって左手を挙げようと思ったら、そうすればいいだけだ。わざわざお願いする必要も、命令する必要も、説得する必要もない。

この世で一番自由に動かすことができて、コントロールすることが出来る、もっとも信頼出来る人というのは、自分なのだ。

しかし、その自分が、平気で自分を裏切る。先ほど遅刻の話をしたが、どれだけ深く反省をしたとしても、どれだけ固く誓ったとしても、それでも平気で、未来の自分は過去の自分を裏切っていくのだ。時には自分に言い訳をして、時には「しょうがない」と自分で自分に言い聞かせて、時には反省したことも誓ったことさえもすっかり忘れて、平気で未来の自分は過去の自分を裏切っていく。

この世でもっとも信頼に値する人は、自分だったはず。その自分が平気で自分の信頼を裏切っていく。私はもしかすると、だれよりも自分自身こそを信じることができないのだ。

そんな自分が、誰よりも信じることのできない自分自身が、「何かを信じる」と思ったとしても、言ったとしても、そんな思いが、言葉が信じられるわけもない。

借金を繰り返しながら、一度もその借金を返すこともせず、何度も約束を破る友人がいたとして、その友人の言葉を信じることが出来るだろうか。その友人は、何を隠そう慈海自身なのかもしれない。

慈海は、自分自身を信じることができない。自分自身を信じることができないのだから、そんな自分自身が信じると思ったものも、語ったものも信じることができるわけがないのだ。

そんな、自分自身さえも信じることのできない慈海に向かって「そのまま」と呼ぶ声がある。神や仏や何も信じることなんて出来るわけもないと思っている慈海に向かって「そのまま」と呼ぶ声がある。

宗教は「信心」を必要とする。人の「信心」を条件として、絶対的な存在から幸福を与えられることを目指すことを、宗教の世界観と考えるのが、一般的ではないだろうか。

しかし、浄土真宗の、お念仏の教えというのは、私の「信心」を必要としない。慈海の「信心」を条件として、極楽浄土に生まれるわけではないのだ。

だからといって、浄土真宗では「信心」を大事にしないかといえば、そうではない。浄土真宗では、うるさいほどに「信心」を大事にしろという。しかし、この場合の「信心」には尊敬語の「御」がつくのである。「御信心」と言うのだ。私の中に「信心」はないのである。佛の方に「信心」があるのだ。私の信心ではなく、佛の信心であるから「御信心」と敬語になる。

慈海はどう頑張っても、どんだけ考えても、「このまま」の自分ではよいとは思えない。しかし、その慈海に向かって「そのまま」と呼ぶ声がある。そんな声など永遠に信じることなどできない慈海に、それでも「そのまま」と呼ぶ声がある。

この呼び声が なもあみだぶつ というお念仏である。

なもあみだぶつ というお念仏の教えは、私が信じる教えではない。私が信じられている教えである。

他力といふは如来の本願力なり。
顕浄土真実行文類 他力釈

「他力本願」という言葉の「他」とは、他人でも、佛でもなかったのだ。如来の本当の願いが、如来から見た他である慈海に働いているということだ。つまり、この「他」とは、慈海そのものだったのだ。

佛さえも信じることができない、極楽浄土に生まれたいと思うどころか、極楽浄土さえも信じていない、そんな慈海に向かって、佛の方から「私がお前を信じておるぞ。お前のことを思っているぞ。お前のことを極楽浄土に生まれさせるぞ。」と願ってくださっている。どんなに逃げようとも、どんなに信じられなくても、その願いが慈海に届いているぞという言葉が「他力本願」という言葉だった。

そして、その願いが、声となって慈海に届いているという証が、なもあみだぶつ と、不信の慈海の慈海の口から出てくる、お念仏だった。この声の中に、佛の御信心がこもっている、と聞くのがお念仏の教えであった。
「いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり」
顕浄土真実行文類 釈文 元照律師釈七文

しかし、お念仏を称え(となえ)、耳に聞くという条件で救われるという事を信じるということではないか?お念仏をすることというのは、結局それは信じているいうことなんではないか。なんだんだ言っても、結局は自分の信心が必要なんではないか?親鸞聖人も
仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし
顕浄土真実信文類 経釈文自釈
とお経の中にあるとおっしゃっているではないか。という人もいるだろう。

だが、この「疑心あることなし」という言葉こそが、「お前の信心を必要としないのだぞ」ということを顕していらっしゃるのである。が、ちょっと難しい話になってきたので、これについては別の機会にまた詳しく書いてみようと思う。


わけが分からなくても、信心なんてなくても、わからないまま、そのままお念仏を声に出してしてみればいいと思う。阿弥陀如来は決して、「分かってこい。信じてこい。」なんておっしゃっていないのであるから。

わからなければ、わからぬままに。信じられなければ、信じられないままに。
それこそが、佛のお目当て。

「お前に信心なんてあるか!お前が信じられておるんやぞ。お前こそが阿弥陀様の御信心のお目当てであるぞ」

そう、師は常に慈海に聞かせてくださっている。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

信心のない慈海に、ほら、御信心が届いてくださっていた。
ありがたいこと ありがたいこと

合掌 なんまんだぶ

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合掌 なんまんだぶ