蓮如上人 |
ここは、浄土真宗中興の祖と言われる、蓮如上人(本願寺第八世法主)という方が、北陸における布教の拠点として建立した坊舎でした。
旧越前国北潟湖畔の吉崎山頂上に建立された吉崎御坊には、多くの門徒(浄土真宗信者)が集まり、賑わい、寺内町も発展して行きましたが、その後一向一揆の拠点にもなったことから、永正3年(1506年)に朝倉氏によよって破壊されました。
しかしその後、吉崎山のふもとには、本願寺派(お西)の吉崎西別院と、大谷派(お東)の吉崎東別院が建立され、蓮如上人往生後も。上人を慕う全国の門徒衆が多く参拝に訪れ、北陸地方における信仰心の拠り所の場所となっておりました。
大きな地図で見る 吉崎御坊跡の位置
2.空襲、そして震災で二度壊滅した福井市街
さて、時は流れ、太平洋戦争が勃発。敗戦色濃くなってきた頃、福井の街にも戦火が襲いました。1945年(昭和20年)7月19日、アメリカ軍による戦略爆撃により、福井市街は一面焼け野原となりました。
すでに往生された私の祖母の話では、隣町から福井市中心にある福井駅まで見渡せるほどに、すべて焼き払われたそうです。多くの建物が消失しました。多くの方が亡くなりました。しかし、福井の人はあきらめませんでした。寄せ集めの木材やらトタンやらで、バラックを作り、闇市を起こし、たくましく、福井の街は復興して行きました。
戦後GHQによる統治が始まりました。福井の街は空襲の爪あとを残しつつも、しっかりと復興しかけていました。
しかし、1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒、福井市近くの丸岡町直下で、大きな地震が発生しました。都市型直下型地震です。
![]() |
地震直後の大和百貨店 |
当時想定されていなかった震度であったため、当時設置されていた震度計は、針を振り切りました。
復興間もない福井市街は、一瞬にして、再びガレキの街になりました。
地震のあとは、火事が発生します。倒壊した多くの家屋は、炎にのまれていきました。
私の母親は当時6歳だったそうです。その母に聞くところによると、
「お母さんの家はお店をやってたから、配給制のマッチとかも多く預かってたやね。地震でそれに火がついた。あっという間に家は火に包まれて、お店を中心にどんどん町が燃えていったんや。母親にてを引かれて、ただただひたすら走ったのを覚えてる。逃げる途中近所の人の叫び声がするんや。『たすけてくれー たすけてくれー』そう叫ぶ声が、あちこちでした。でも、構っていられなかったから、そのままひたすら走りつづけたんや。」
私の父親に聞いた話では
「ある学校の先生は、崩れた校舎の柱に腕がはさまってしまってたんやと。みるとガレキの向こうから火が出てる。どんどん火が迫ってくる。その時先生は『ナタを持って来い!』って叫んだんやと。生徒が慌ててナタを探して先生のところに持って行き、挟まれていない方の手にそのナタを渡したんやと。そしたら、その先生、どうしたと思う?腕がはさまれている柱を切るのかと思うやろ?ちがったんや。先生は、はさまれている腕を、ひと思いにそのナタで切り落とし、そして逃げたんやと。」
子供の頃から、聞かされてきた話です。こういった話が、今でも多く語り継がれています。
さて、福井の街は、3年の間に二度も焼失しました。
やっと復興してきたところで襲われた災害。当時の方々は、本当にやるせない気持ち、絶望感に襲われたかと思います。
そして、この福井大震災によって、吉前西別院の山門もまた、倒壊してしまいました。
前置きが長くなりましたが、この吉前西別院の山門にまつわるお話を、次回から2回に分けてしたいと思います。
■参考リンク
・吉崎の場所
・吉崎御坊について(wikipedia)
・蓮如上人
・福井大空襲
・福井大震災
『今、多くの人に聞いてもらいたい福井吉崎「念力門」の話』
<第1回> <第2回> <第3回>
本シリーズは、内容を再度精査し、新資料を加えて再構成し、この聞見会サイト内に「念力門 - 念仏が運んだ天狗の門」として、連載開始しました。そちらもどうぞご覧ください。