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なんまんだぶ

2011年9月1日

海までの道を歩いたロードストーリー的な思い出話

彼の名前は、仮に"ヨタロウ"ということにします。
ヨタロウは、よく言えば、自分の世界をしっかりと持った個性ある性格の持ち主ですが、悪く言えば、自分勝手で頑固なやつでした。
彼とは中学校時代からの友人で、とても変なやつでしたが、なぜか私とウマが合い、気がつくと、いつもつるんで悪さをしたり、悪さをしたり、大人になっても一緒に悪さをしたりしてばかりいました。

あるとき、中学時代担任だった先生が、教師をやめてサーフショップを始めたのがきっかけで、ヨタロウと私はサーフィンをはじめました。
毎週のように二人で海に行って、波乗りの楽しさ、テクニックについて分析したり、アドバイスしあったり、そして自然と遊ぶことの精神性的なことを語り合ったり、自分の将来の夢とか語ってみたり、そういう時期がしばらく続きました。

しかし、ある出来事をきっかけに、私の事情が大きく変わって行きました。

その事情というのはお金の問題でした。
仕事に行くための電車賃にさえ困る、その日暮らしのような毎日。
お金がないので大切にしていたサーフボードも売らければいけなくなり、サーフィンどころか、たまに友人と会って酒を飲むことも、ヨタロウとは別の大親友の結婚式に招待されても、着ていく服がなくて行けないような、そんな日々を過ごしていました。

そんな折、しばらく連絡を取り合っていなかったヨタロウから電話がかかってきて、その日の夜に久々に会うことになりました。
その時住んでいたところの近くのファミレスで、世間話やら、最近の話やらしているうちに、だんだん私の愚痴っぽい話になっていきました。

私 「海行きてーなー……。見るだけでもいいから海に行きたい。でも、電車賃もない状態だし……」

するとヨタロウは、

ヨタ 「よし、じゃぁ今から鵠沼(江の島近くの海岸)行くか」
私 「え、でもオレ金少ないし……」
ヨタ 「歩いていけばいいじゃん」
私 「は? ここからどんだけ距離あると思ってんだよ。それに道もわからないし、明日おまえは朝からバイトって言ってたじゃん。」
ヨタ 「一晩歩けば行けるって。道なんてたぶん246沿いに歩けば着くんじゃね?最悪誰かに聞けばいい。」

その時にいたのは、東京の下北沢で、鵠沼までは直線距離でも50kmくらいあったと思います。実際に歩く距離は100km近くあったかもしれません。常識的に考えて、一晩で歩ける距離ではないです。
さらに、その時は二人とも国道246線沿いにいっても海までは行けないことは、知りませんでした。つまり、彼が言っていたのはあてずっぽだったんです。ちゃんとした道も知らないなんて、自殺行為に近いかもしれません。

でも、彼がこういう風に決めた時は、何を言っても効果がありません。
私は、危険を感じたらすぐにあきらめることを条件に、しぶしぶその話に乗ることにしました。
内心、道もわからないし、1時間くらい歩けばすぐにギブアップとなるんじゃないかと思っていたこともあります。

しぶしぶながら「じゃぁ行くか」と返事をしたものの、やっぱりグダグダ言っている私に、ヨタは 「だーいじょうぶだって。なんとかなるって!」と繰り返しながら、渋る私を半分引きずるようにして、歩き出しました。

歩き始めて10分後、まず第一の関門に気付きました。
246に出るにはどうすればよいかわからない……
たまたま信号待ちしていたタクシーを捕まえて、246に出るまでの方法を教えてもらいました。
(今思うと、その時鵠沼までの行き方を聞いておけばよかったのですが、若い私たちはバカでした。)

1時間後、ちょっと足が痛くなってきましたが、意外と歩けるもんだなぁと、ちょっとテンションが上がってきました。

思い出話とか、どうやったら女の子にモテるのかとか、ここでは書けないような下品な話とか、かと思えば、戦争の話とか、将来の話とか、真面目なことを語り合っているうちに、どんどん道沿いのビルが少なくなり、4時間ほど歩いた頃には、山の中の道を歩いていました。
道を走る車は、トラックとか、トレーラーばかりになり、そのうち雨も降り出す始末。

ここらで一回休憩するかと、ヨタロウと私は、とうに閉店時間が過ぎている真っ暗な喫茶店の駐車場で、缶ジュースを飲みながら休憩することにしました。

その時、彼が私に言ったセリフを忘れることはできません。

ヨタ 「できないことばっかり考えるよりもさ、できること考えてた方が楽しくね?」

私は、その時、彼がなぜ急に海まで歩こうと言い出したのかが、やっとわかりました。
正直なところ、その時までは、いつもの気まぐれで言い出しただけで、遊び半分で言い出したことだとばかり思っていました。
私は、彼の気まぐれに付き合ってやってる、とさえ思っていました。

「あれができない。」
「これは無理。」
「これをしたいけど状況的に難しい。」

その頃、人生で一番最初の大きな壁、どう考えても越えること何て絶対に無理と思えるような、蟻地獄のような状況に陥ってしまっていた私は、周りの状況や、"現実"という思い込みにとらわれて、やりたいことを押し殺して、できないことばかりを並べては、不幸だ不幸だと自分に言い聞かせていました。

ヨタロウのその一言に、私はなんて返事をしたのか覚えていません。
たぶん、私はそのあとしばらく無言だったんじゃないかと思います。
彼もそのあと何も言わなかったような気がします。
じっと私が考えているのを、黙って知らん顔をしてたような気がします。

しばらく休むと、「時間もないし、行くか!」と、気合いを入れ直し、皮がめくれ始めてきた足の痛みも忘れて、また歩き出しました。

その後、何を話したのかはあまり覚えていません。
またくだらない話をしていたのか、それとも何もしゃべらなかったのか……

歩き始めて7時間後、だんだん明るくなってきました。
時計を見ると朝の5時半。
その頃はもう小雨でしたが、雨の中を長距離歩いてきたこともあって、二人ともくたくたになっていました。

ヨタ 「この辺が限界かな」
私 「いや、まだいける」
ヨタ 「バイトあるし、一回帰らないと。それにお前、足もう限界だろ」
私 「そか……」
ヨタ 「まぁ、無理はイカンよ」

誘ったのはお前のほうなのに、この期に及んでそんなことを言うかと、二人で爆笑しましたが、確かに無理はいけないなと、海までの道を行くのは諦めて、近くの駅を探すことになりました。

しばらく歩くと小田急線の線路が見えてきました。
今思うと、奇跡的だと思います。よく簡単に見つかったもんだ。

線路沿いに歩いて、駅にたどり着き、当然のように新宿行きの切符を買おうと思ったときです。

ヨタ 「あとは、電車で行けばいいよ。悔しいかもだけど、電車に乗ってでもいいから、海見るだけ見て帰れば?」

といって、彼は千円札を私に押しつけました。
私の持っている小銭が、帰りの電車賃でギリギリだというのが分かっていたのかもしれません。

ヨタ 「俺もお前も、今日のことは自慢できるな。ここまで歩けた、というのは間違いない事実だ。おれも自信ついたわ。」

そう言って、最後に「風邪ひくなよ」とだけ言って、彼だけ新宿行の電車に乗っていきました。

私は、鵠沼方面へ行く反対側の電車に乗り、1年近くぶりに海を見ました。
もやがかかって、ぼんやりとした景色でしたが、あの時見た海の色は、とてもやさしかったのを覚えています。

この時から、もうすでに十数年経ちました。
いまだに私は、できないことばかりを数えて、無理だ無理だと言い訳を並べてばかりいます。
情けないなぁと、本当に自分を信じられなくなったりすることもありますが、このときのことをふと思い出すと、また選択する自由があること、試してない道があることを、思いだすことができます。

「無理」というのは、状況や現実ではなくて、
自分が自分で作りあげた、思い込みなのかもしれません。
もしくは、自分が「無理」と思いたいだけなのかもしれません。

実は、ヨタロウは、数年前に音信不通になり、今では行方不明です。
友人たちの間では、海外のアンダーグラウンドな世界に行ってしまったんじゃないかとか、どこかの国で革命を企てているんじゃないかとか、穏やかではない冗談を言い合っていますが……。

でも、彼は今でも独自な世界をしっかりと守って、彼なりに悩んだり、迷ったりしながら楽しく生きてるんじゃないかなぁと思います。
きっと本当に困った時は、今度は彼から私に連絡をしてくるでしょう。


と、このまま思い出話だけで終わってしまうと「どこが仏教どうでしょう?」となってしまいますので、ちょっと強引に、仏教のお話を続けます。


江戸中期、臨済宗に白隠禅師という方がいらっしゃいました。
白隠禅師は幼い頃に教えられた地獄の噺に怯えながら、地獄の恐ろしさから逃れるために、仏門に入られた方でした。そして、地獄とは、自分の周りにある状況でも、おとぎ話の世界の話でもなく、自分の心のなかにこそあるのだと、さとられました。
地獄は自分の外にあるのではなく、自分の中にこそあるのでしょう。
満たされない思い、迷い、執着といった、心のなかの澱みが、私の中に地獄を作るのかもしれません。
しかし、その地獄こそが、私の心の中にある「苦」の材料を、そのまま見せてくれているのかもしれません。私の中の地獄を、そのまま、ありのままに観ることができたとき、それこそが、実は仏の境地なのかもしれません。

白隠禅師は「南無地獄大菩薩」と唱え、地獄こそが私に仏法を聞かせてくれたと喜び、いくつもの書を残されていきました。


この白隠禅師のお話を先日聞いた時、ふとヨタロウとの思い出を思い出しました、
そして、この思い出と、「南無地獄大菩薩」が、私の心のなかで少しリンクして感じられました。

南無地獄大菩薩
南無阿弥陀仏

地獄を歩く自分の姿をそのまま、ありのまま見つめることができた時、すでにそこは地獄ではないのかもしれません。

合掌

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合掌 なんまんだぶ