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なんまんだぶ

2012年8月3日

おじさんが、この世でやりのことしたこと。(白骨の御文章)

隣の家のご主人が数ヶ月前事故にあったそうです。乗っている車は大破して、意識も失ったものの、数日後には意識も取り戻し、大きな怪我もなく後遺症もなく、数週間前に退院されました。

数日前、家の玄関先を掃除してたらちょうどそのおじさんもいらっしゃって、「なんともないですか?」と声をかけると、「いやぁ、大変な目にあったよぉ。でもまぁ、ナントカ戻ってきたわぁ」と。そして、事故のあと意識がなかった時の話をしてくださいました。

「三途の川にはね、川みたいに水が流れてえんかったんやよ。なんていうのかな、水の渦みたいなのがぐるぐる渦巻いてるだけだった。へーんな光景やったなぁ。でな、ちょうど事故の三日前にこの前死んだ親戚の爺さんの納骨があったんやけど、その爺さんがその水の向こうにいるんやわ。ほかにも何人かいたなぁ。で、みんなして『帰れ、帰れ、お前はまだ来るの早い』と言うんやって。そんで気がついたら病室で寝てた。」


三途の川の話はよく聞きますが、身近な人から同じような話聞くと、そういうもんなんかもなぁと、興味深くその話を聞かせてもらいました。

「アレはなんやったんやろうなぁ」

とそのおじさんが聞いてきたので、

「へー、面白いですねぇ。でも、まだ早いって言われたってことは、なんかやり残してることがあるんやろうねぇ。もしかすると、もっと仏法聞いてこいちゅうことやったんかも知らんよ。」

と慈海が答えると、おじさん

「あぁ、そうか......。うん、そうかもしらんなぁ」

としばらくぼんやりと考えていらっしゃいました。

「そういえばおじさん、確かまだ法名もらってなかったやろ?もらわんのか?」

と慈海が聞くと、

おじさん「いやいやいや、死にかけたからって、それはまだ早いやろう」

慈海「え!おじさん、法名っていうのは死んだもんに付ける名前ちゃうよ!」

おじさん「え!?そうなんか!???」

そこで、慈海は法名についてのお話をしました。

法名というのは、「釋◯◯」というように、釋という姓がつきます。これは、お釈迦様の弟子ですよ、ということ。つまり、仏教徒であることを名乗るわけです。ですが、一般的には生きているうちに自分が仏教徒であるとかそういうことは意識しない方が殆どになっています。ですが、死んだ後、葬式をあげるときには仏式のお葬式をする。そこで、仏式のお葬式をするためには、その人が仏教徒でなければならないので、死んだあとに、慌てて仏教徒にして、法名を頂いてから、お葬式をするわけですね。

これが、いつのまにか本末転倒、法名をもらうのは死んだ後、という認識の方が主流になってしまったわけです。

「だから、おじさん、家にお仏壇あって、佛さんの前で手をあわせて、いずれ極楽浄土に往くと思っているのなら、はよう法名もらってきたらどうや?で、せっかく娑婆に戻らせてくださったんやから、お念仏して、お念仏のお話聞いたらいいと思うよ。お念仏のお話は、娑婆でしか聞かれんよ。」

と慈海が話すと、おじさん、「さっそく予定考えるわ!」とおっしゃっていました。


人は、日常の中では日常の事しか考えられません。そして死というのは日常の外にあるとしか思えないものだと思います。

ですが、死というのは決して日常の外にある話ではないはずです。蓮如上人はこういうお手紙を残されています。
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。
されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(蓮如上人御文章五帖目第十六通)
有名な「白骨の御文章」 と言われるお手紙です。古文なので読みにくいかもしれませんが、わからないままでも結構ですので、ぜひ、あなたに宛てて500年前のおじいさんから頂いた手紙だと思って、声に出して読んでみてください。

人間の一生というものを考えてみると、まさに幻のように一瞬のことかもしれません。どれだけ長生きしたとしても、一万年生きたという人はいませんね。一生は過ぎやすいものです。朝には元気に家を出ていった人も、夕方には冷たい骸になっているかもしれない。そういうもんです。そしていくら家族親戚友人が集まって悲しんだとしても、そこには白い骨しか残っていません。これは、若い人であろうが、年寄りであろうが、同じ事ですね。このような一瞬で終わってしまう人生だからこそ、後生のことを心に思い、阿弥陀仏の願いを深く聞いて、お念仏申しましょう。

というようなことが書かれています。(慈海が簡単に超意訳)

死というのは、日常の外にある話ではありません。まさに日常の中にある話です。その日常の中にある、自分自身の生と死というものを聞いていくことが、佛法を聞くということかもしれません。

私はなぜ生まれて、なぜ生きて、なぜ死んでいくのか?どうして生きて死んでいかねばならぬのか、といった自分主眼での生死の捉え方から、阿弥陀仏が生きて生まれておいでと呼んでくださる願いを聞くことで、自分の生と死というものがなんなのか、聞いてみることも、たまにはいいんじゃないかなと思います。そして、それは、この娑婆でしか聞けない話なんでしょうね。

この娑婆に生まれさせて生かさせてくださったからこそ、お念仏が聞ける。

合掌 なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたいこと

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合掌 なんまんだぶ