自分ではなかなか「自分はこれでいいんだ」なんて本当に思うことなんてできない。どんなに考えたって、どんだけ鏡に写した自分の姿を見たって、どんなに「これでいいんだ」と考えようとしたって、でもやっぱり、自分では「これでいいんだ」なんて、心の底から思うことなんてできない。
その慈海を「そのまま」と呼ぶ声がある。
慈海は、何も信じていない。坊さんになった今でも、佛を信じることなんてできない。極楽浄土というところがあって、死んだらそこに生まれるなんて、信じられるわけもない。もし、目の前に金色に光る佛さまが姿をあらわしてくださったとしても、この目で見たその光景を、信じることなんてできないだろうと思う。「幻覚を見ているのだ。おれはアタマがおかしくなったんじゃなかろうか。」そう思うことが関の山ではないかとおもう。
実際に、自分の目でみた世界というのは、本当にその世界が見えているわけではない、というのは、だまし絵を見れば分かるはずだ。人間は、自分が見たいものを見る。白いものを黒く見てしまうのが人間の脳みその構造だ。「あばたもえくぼ」ということわざもある。同じ夕焼けの空を同じ場所で同じ時間に見ていたとしても、その夕焼けの空の色を、黄色と答える人もいる。赤と答える人もいる。橙色と答える人もいる。紫と答える人もいる。青と答える人もいる。同じ物を見ていたとしても、人によってその見え方は違うのだ。