「ちょうどよかったー。聞きたいことがあるんやけどの(聞きたいことがあるんだけどね)」
「なぁにー?」と慈海。前にも書きましたが、このおばあちゃんの質問は坊さん泣かせ。トンデモなく難しい質問をさらっと聞いてくる。
「"あわれあわれ"って、どこに書いてあるんかのぅ?」
そういえば、蓮如上人が全国のご門徒さんに宛てて書かれたお手紙を集めた『御文章』のなかに「あはれ、あはれ、~」とあるのを読んだこと有るなと思い、
「もしかして御文章かな?」と聞くと、「そうやそうや、御文章の話やった」とおばあちゃん。
それであれば、きっと大阪建立章かなと思いながらも、自信がない慈海。で、スマートフォンを出して御文章を呼び出し、大阪建立章を調べると、あった!きっとこれだ!
しかれば愚老当年の夏ごろより違例せしめて、いまにおいて本復のすがたこれなし。つひには当年寒中にはかならず往生の本懐をとぐべき条一定とおもひはんべり。あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。
(『御文章(四帖』-大阪建立 一部抜粋)
「おばちゃん、もしかしてこれか?」
と聞くと、
「そうやそうや!これやこれや!」
とおばあちゃん。
いやぁ、便利な世の中だなぁと思いながらも、この御文章、実は朝のお勤めの際、ひと月に一回は読んでるはずの御文章でした。すぐに出て来なかったのが悔しい。
ところでおばあちゃん、先日ご法話を聞きに行ったけれども、その時のご法話の内容が難しくてよくわからなかったとのこと。いつも聞いてきたご法話が難しいと、こうやって質問しに来られるので、慈海にとっていい勉強になる。ありがたい。
「これはあれか、お念仏をしなかったら哀れやということか?なんにしても、お念仏しなさいよというてなさるんやろ?」
そうおっしゃるので、
「これは、蓮如上人が結構なお年になっていらっしゃって、体も悪くなってきた時に書かれたお手紙やね。もういよいよ往生する時期も近いと蓮如さんはおもってらしたんやろうね。そんで、ご門徒さんに"たのむこっちゃ、どうか私の命のある間に、みんなお念仏をよろこぶようになってほしいと、朝に夕に思うてるんです"とおっしゃってるんや。」
とお話ししました。そして、
「"あはれ"っていうのは、今で言うとかわいそうとかそんな感じの意味で使われるけど、当時は心の底から感じいるような、"あぁ・・・"というような、そんな心の思いを言うたらしいのよ。
ほら、ちょうど今夕日が沈んでるやろ?綺麗やの。で、この夕日をみて"あぁ"と思う気持ちがあるやろ、これが"あはれ"ということらしいよ。
つまり、蓮如さんは、私らに対して、"どうかどうかたのむこっちゃ"と、私らの後生を心配してくださってる思いが、"あはれ、あはれ"という言葉になったんやろうなぁと思う。」
すると、
「あぁ、そんなもったいないのぅ。難しい話を聞いてもようわからんけど、お念仏しなさい、お念仏だけやということだけはわかります。それにしても、やっぱり、蓮如さんはありがたかったのぅ。あぁそうでしたかそうでしたか。なんまんだぶ だけやのぅ。」
と嬉しそうなおばあちゃんでした。
いつも思うのですが、こうやって、38の私と、80近くのおばあちゃんとが、膝を突き合わせて共通の話題で盛り上がれる話というのは、お念仏のお話、後生のお話くらいしか無いかもしれません。ありがたいことだなぁと思います。
そしてそれもまた、お念仏のお働き、なのかもしれないなぁと思いながら、このあと続くおばあちゃんの質問にアタマのアクセルをフルスロットルにする、そんな夕暮れ時の慈海でした。
何はともあれ、おばあちゃんの仰る通り、なんまんだぶ だけでした。
合掌 なんまんだぶ
と聞くと、
「そうやそうや!これやこれや!」
とおばあちゃん。
いやぁ、便利な世の中だなぁと思いながらも、この御文章、実は朝のお勤めの際、ひと月に一回は読んでるはずの御文章でした。すぐに出て来なかったのが悔しい。
ところでおばあちゃん、先日ご法話を聞きに行ったけれども、その時のご法話の内容が難しくてよくわからなかったとのこと。いつも聞いてきたご法話が難しいと、こうやって質問しに来られるので、慈海にとっていい勉強になる。ありがたい。
「これはあれか、お念仏をしなかったら哀れやということか?なんにしても、お念仏しなさいよというてなさるんやろ?」
そうおっしゃるので、
「これは、蓮如上人が結構なお年になっていらっしゃって、体も悪くなってきた時に書かれたお手紙やね。もういよいよ往生する時期も近いと蓮如さんはおもってらしたんやろうね。そんで、ご門徒さんに"たのむこっちゃ、どうか私の命のある間に、みんなお念仏をよろこぶようになってほしいと、朝に夕に思うてるんです"とおっしゃってるんや。」
とお話ししました。そして、
「"あはれ"っていうのは、今で言うとかわいそうとかそんな感じの意味で使われるけど、当時は心の底から感じいるような、"あぁ・・・"というような、そんな心の思いを言うたらしいのよ。
ほら、ちょうど今夕日が沈んでるやろ?綺麗やの。で、この夕日をみて"あぁ"と思う気持ちがあるやろ、これが"あはれ"ということらしいよ。
つまり、蓮如さんは、私らに対して、"どうかどうかたのむこっちゃ"と、私らの後生を心配してくださってる思いが、"あはれ、あはれ"という言葉になったんやろうなぁと思う。」
すると、
「あぁ、そんなもったいないのぅ。難しい話を聞いてもようわからんけど、お念仏しなさい、お念仏だけやということだけはわかります。それにしても、やっぱり、蓮如さんはありがたかったのぅ。あぁそうでしたかそうでしたか。なんまんだぶ だけやのぅ。」
と嬉しそうなおばあちゃんでした。
いつも思うのですが、こうやって、38の私と、80近くのおばあちゃんとが、膝を突き合わせて共通の話題で盛り上がれる話というのは、お念仏のお話、後生のお話くらいしか無いかもしれません。ありがたいことだなぁと思います。
そしてそれもまた、お念仏のお働き、なのかもしれないなぁと思いながら、このあと続くおばあちゃんの質問にアタマのアクセルをフルスロットルにする、そんな夕暮れ時の慈海でした。
何はともあれ、おばあちゃんの仰る通り、なんまんだぶ だけでした。
合掌 なんまんだぶ