福井市街は3年の間に、大空襲、そして記録的な震災により、2度破壊されました。
震災が発生した当時はすでに戦争は集結していたものの、日本はGHQの統治下にありました。
日本国内では大きなイデオロギーの転換が進められ、政治的にも社会的にも大混乱の時代でした。そんな社会情勢の中、震災により、およそ3,800人の方が亡くなり、36,000軒以上の家屋が倒壊したといいます。戦争が終わり、大空襲の被害からようやく復興の芽が育ちかけてきたその時、再び街は壊滅状態になりました。
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被災後九頭竜川で水浴びをする方々 右上は地震のあとくずれ落ちた国鉄の鉄橋 |
まさに、この世は無常。
ところで、震災があった翌年、京都にある西本願寺には、戦後の都市計画の一環で、北の総門を取り壊すという話が出ていました。この、北の総門は、通称「天狗門」と呼ばれ、1591年(天正19年)に豊臣秀吉が西本願寺に寄進し、1864年(元治元年)には、蛤御門の戦で発生した火災から本願寺の堂宇を守ったことで、別名「火止の御門」とも呼ばれていた、歴史的にも名高い御門でした。
当時の天狗門(火止の御門) |
「どうせ取り壊すのであれば、吉崎にください」
そうおっしゃったのは、当時吉崎別院の輪番であった巨橋さんでした。
震災により、吉崎御坊跡の麓にある、浄土真宗本願寺派吉前西別院の山門も倒壊し、そのままの状態になっていました。巨橋さんは、この倒壊した山門の代わりに、この天狗門(火止の御門)を、吉崎西別院に移築したいと、本願寺にお願いしたそうです。そして、その願いは認められ、移築することが決定しました。
早速移築の計画が進められましたが、当時はまだ資金も物資も乏しい時代です。
そこで、門徒(浄土真宗の信者)の方々に声をかけ、歩いて京都の西本願寺から、福井の吉崎西別院まで運ぶこととなりました。
4.北へ……
「京都から福井の吉崎まで歩いて門を運ぶそうだ」
この話は多くの方に伝わりました。
そして、「なにかしなければ!」という思いで集まった門徒の数100余名。荷車16両に解体された天狗門(火止めの御門)を積み込み、「吉崎念仏報恩団」として、福井まで向かうこととなりました。
多くの方に見送られ、吉崎念仏報恩団は、京都西本願寺を出発しました。
総勢100余名で本願寺を出発 |
草鞋姿の一行。荷車の車輪には戦闘機の車輪を使い回したものも。 |
沓掛橋を行く吉崎念仏奉仕団 |
宿泊先は、道中のご門徒が家を開放してくださいました。握り飯を山ほど用意し、布団をならべ、一行を暖かく出迎えてくださったそうです。朝になり出発前になると、「徹夜で編んだで使ってください」と草鞋を抱えて持ってきてくださる方もいらっしゃったそうです。
現代と違って、道は綺麗に舗装されていません。素歩きならともかく、重い荷車を押しては引いて進むには、特に峠を超えるときは大変だったでしょう。その時、一行の口からは恩徳讃がこぼれてきます。みんなで恩徳讃を口ずさみ、「身を粉にしても報ずべし」「骨を砕きても謝すべし」と、弥陀如来への御恩報謝の気持ちが、一行の足を前へ、前へと進めます。
恩徳讃 (前半部分の節が当時歌われた節と思われます) |
京都から滋賀県へ、琵琶湖の東側を北へ向かい、難所であった峠を超えてようやく福井県に入ります。疲れが溜まっていたでしょう。それでもひたすら北へ北へと向かう一行。そして、ようやく福井市街へ入ったその時、数千名の人たちが一行を迎えました。
空襲、震災と、二度にわたって壊滅状態になった福井市街。世の無常に打ちのめされ、暗澹たる思いが渦巻いていた市街が熱狂に包まれます。無数の人達が歓声を上げながら一行を出迎え、労を労います。そして多くの人達が我先にと荷車を押し始め、一行に加わります。そして、多くの方々が、手を合わせ涙をこぼしながら「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ」と繰り返しています。
吉前西別院は、もうあと少しです。
本シリーズは、内容を再度精査し、新資料を加えて再構成し、この聞見会サイト内に「念力門 - 念仏が運んだ天狗の門」として、連載開始しました。そちらもどうぞご覧ください。
吉前西別院は、もうあと少しです。
『今、多くの人に聞いてもらいたい福井吉崎「念力門」の話』
本シリーズは、内容を再度精査し、新資料を加えて再構成し、この聞見会サイト内に「念力門 - 念仏が運んだ天狗の門」として、連載開始しました。そちらもどうぞご覧ください。