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なんまんだぶ

2012年4月8日

天にも地にも我ひとり

今日4月8日は「花まつり」です。降誕会(ごうたんえ)、潅仏会(かんぶつえ)などとも言われるお釈迦さまの誕生日です。

昔も昔、4月8日にお釈迦さまはお産まれになったです。

昔も昔、二千五百年前とも、三千年前ともいわれる遠い昔のおはなし。インドの北に釈迦族の国がありました。そこには浄飯王とその王妃摩耶夫人という方がいらっしゃいました。ある夜のこと、その王妃摩耶夫人の夢のなかに、6つの牙を持つ白い象が現れ、体の中に入っていったそうです。不思議に思い王と王妃は占い師に尋ねると、白い象は高貴な象徴。まさにこの夢はお世継ぎが生まれる吉報だとか。これはめでたいと王も王妃もお喜びになり、それから間もなくその夢のお告げ通り摩耶夫人は懐妊しました。
その後摩耶夫人は出産のために里帰りすることになりました。里帰りの途中、摩耶夫人一行はルンビニの園という場所でお休みになったそうです。春うららかなその日、ルンビニ園では花が咲き匂う中、摩耶夫人がふと木に咲いた花を取ろうと右手を挙げたとき、摩耶夫人のその右の脇から、子供がお産まれになりました。
生まれ落ちたその赤ん坊は、生まれたばかりだというのに、スクリと立ち上がり、自分の周りをぐるりと見渡すと、歩き出しました。そして、7歩足を進めた所で、右手で天を、左手で地を指さし、高らかに
「天上天下唯我独尊」
とおっしゃいました。
気がつくと、その周りにはあの夢で見た白い象を筆頭に無数の動物たちが集い、天には龍が踊り甘い雨を降らせ始めましたそうです。
これがお釈迦さまの誕生のお話です。昔も昔、4月8日の今日、お釈迦さまがお産まれになられ、この世にお出ましになられました。

右脇から生まれたってマジカヨ…

さて、このおはなし、色々ツッコミどころが満載ですが、とりあえず一番のツッコミどころは「摩耶夫人の右脇からお産まれになった」ところでしょう。生まれた直後に歩いたとか喋ったとかそういうのはお話としてもよくあることなので、「まぁ、つくり話としてはありがちだよね」と受け流すことができても、よりにもよって、右脇から産まれたというのは、「摩耶夫人の体の構造どうなってんだよっ!」と、ツッコミを入れざるを得ません。
ですがね、これにもちゃんと意味があるのですよ。

当時のインドはバラモン教の国でした。このバラモン教、カースト制度でも有名ですね。そしてこのカースト制度と、お釈迦さまが右脇からお産まれになったというのが密接な関係にあるのです。
バラモン教の経典(マヌ経典など)によれば、人間は神の体から生まれたとされているそうです。神の口からバラモンが、上半身からクシャトリアが、下半身からヴァイシャが、そして足から奴隷階級であるシュードラが生まれたそうです。これが生まれながらにして厳しくその身分が固定されてしまっていることに繋がるわけですね。で、さらに右半身は清らかで、左半身は汚れているという考えもあったそうです。
もうお分かりになりましたか?そうです。お釈迦さまが母親の右脇から生まれたというのは、お釈迦さまはバラモン教の貴族階級であるクシャトリアの生まれですよということをあらわしているんです。そりゃそうだ、人間が脇の下から生まれてくるわけねーっすよ。

ちなみに、生まれてすぐ周りを見渡したのは、この世界すべてを見渡したということをあらわしています。7歩歩いたのは、これもバラモン教の概念である「六道」を生まれながらにして超えたということをあらわしています。六道っていうのはつまり、この世は天、人、修羅、餓鬼、畜生、地獄の6つの世界があって、バラモン教ではすべての命はこの6つの世界をぐるぐると輪廻転生し続けているという考えがあるんですね。仏教はバラモン教という素地があってその上で出来上がっていったことがよくわかるお話ですね。

そして、天と地を指さし「天上天下唯我独尊」と高らかにおっしゃった部分ですが、まぁ普通は、「私は天にも地にもただ一人の尊い存在である!」とか、「全ての人はひとりひとりがたった一人の尊い存在なんですよ」という意味ですよ、とお教えになられることが多いんですが、ぶっちゃけたところ、あんまり良く意味わからないですよね。

「お釈迦さま誕生日おめでとー!」とか言ってる場合じゃねぇっすよ。

お釈迦さまがこの世にお出ましになったのは、なんのためであったか?というところからこのお話を考えていくのが、仏教徒というものです。「佛法は我こととして聞け」(仏の教えは自分に向かってお釈迦さまがお説教されているのだと思って聞きましょう)といいます。つまり、このお釈迦さまがお産まれになったお話を、ただのお伽話として聞いてるうちは、まだ素人なわけですよ。「花まつり」ってのは甘茶のんで「お釈迦さま誕生日おめでとー!」とか騒ぎながらのほほんと過ごす日じゃないですよ。過去の偉人様の誕生日なんかじゃなく、「私が佛法に出遇った日」なわけです。今の時代に合わせてってケーキ焼いてる場合じゃないっすよ。

お釈迦さまがこの世にお出ましになった本当の理由。それは大経(仏説無量寿経)に書かれています。阿難というお弟子さんが、ある時、あまりに光り輝いているお釈迦さまの様子を見て、「釈尊、どうしてそんなに光り輝いてるんすか?」と尋ねるわけです。するとお釈迦さまはこう言います。
世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。
「私がこの世に出てきたその理由はね、真実の教えである仏の教えをみんなにお話しして、その教えを通して人々をすくい、真実の利益というものを人々に恵むためだよ。」(慈海意訳)
そして、お釈迦さまは阿弥陀如来のお救いのお話をはじめるのでした……。

なんまんだぶ を教えてくださったわけですよ。

人は迷います。腹を立てたり、不必要なものをほしがったり、いつでも自分が一番で、常に自分の都合でしか生きられません。慈海だってそう。いや、慈海は人一倍そういう"煩悩"が強いかもしれない。そんな慈海をすくおうと、阿弥陀如来はいろんなことを考えられたそうです。それも宇宙が始まってから終わるまでを5回繰り返すくらいの長い時間。気が遠くなるどころじゃありません。そんだけ慈海の煩悩が根深いってことでしょうね。
慈海が真実の利益、つまり悟りを得る方法を、色々試しても、なにをやらせても慈海はダメだったわけです。そこで、阿弥陀如来は究極の方法を考えられます。

「よっしゃ、わかった。お前はそのまま来い。わしが名前となってお前のところに行ってやろう!」

そうして、「南無阿弥陀佛」という名号となって、次回の口から「なんまんだぶ」と出てこられたわけです。「なんまんだぶ」は弥陀如来からの呼び声。「そのまま来いよ、間違わさんぞ、必ずお前を悟りの世界に連れていき、佛にするからな。必ずお前をすくいとって離さないからな。」という呼び声です。同じく大経の中でお釈迦さまは私のことをこう言います。
田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、またともにこれを憂ふ。思を重ね息を累みて憂念愁怖す。横に非常の水火・盗賊・怨家・債主のために焚かれ漂され劫奪せられ、消散し磨滅せば、憂毒鸚々として解くるときあることなし。憤りを心中に結びて、憂悩を離れず。
「お金でもモノでもなんでもかんでも、欲しがってばかりいるのに、それを所有したらしたでそれに不平を言ってばかり。そしてその所有しているものを無くしてしまったり、奪われたりすると、今度はそれに腹を立てて、まったくもって、煩悩に振り回されて迷ってばっかりだよ……。」(慈海意訳)


そんな慈海に、真実の利、つまり弥陀如来のすべての衆生を残さずすくいとるというお救いのお話を、するためにお釈迦さまはこの世にお出ましになったかけです。

まことに知んぬ。

まことに知んぬ。慈海はこの宇宙の時間軸の中で、たまたまこの時、人として生まれてくることが出来ました。そして、それどころか、たまたま佛法に遇うことができたばかりか、どうしても「我執」から離れられない慈海に向かって「そのままこいよ、間違わさんぞ、必ずすくうぞ」と呼びかけてくださる「なんまんだぶ」の呼び声に出遇いました。考えても考えても、気が遠くなるばかり。もったいない、かたじけない。そんな教えを残してくださった、お釈迦さまのお産まれになった「花まつり」の今日。私が自分の力だけで簡単に「真実の利」を得られるのであれば、お釈迦さまもこの世にお出ましになる必要もなかったかもです。

「天上天下唯我独尊」

この声は、まさに、今慈海に向かって「"お前はお前でよかった!"そういう教えを、慈海よ、まさにお前に伝えんがためにわしはこの世に生まれてきたぞ!」とという、お釈迦さまの宣言なのかもな、と味わいながら、今日のこの日、合掌して、お念仏を慶ぶ日。そう慈海は味わっております。

合掌 なんまんだぶ

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合掌 なんまんだぶ