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なんまんだぶ
2011年8月31日
仏教どうでしょう?
カテゴリ:
口耳四寸記

今近くに窓ガラスはありますか?どうでしょう?ピカピカでしょうか?
窓の汚れは気になるもので、一度気になったらもうダメで、「ざっと拭いとこう」なんて思ったらもう終わりです。ざっと拭いたら隅の汚れが、隅を拭いたら拭きスジが、乾拭きしたら拭きムラが……。
「新聞紙で拭いたらいい」と聞いて、わざわざ古新聞を引っ張り出して、手を真っ黒にしてゴシゴシやって、内側拭いたら外側が気になって、外側拭いたらまた内側が気になりだして……。「キリがないや」とケリをつけ、窓を見ないように雑巾を片付けて、汗かいたのでシャワーを浴びて、「さっぱりしたし、綺麗になったし、部屋も明るくなった、けど……、やっぱりこことあそこがまだちょっと……」
と、ティッシュでちょっちょっと拭いてみて、残った新聞紙でまた磨いてみて、「これでいいか!」と、いい加減諦めて、ニマニマしながら窓を見ながら、缶ビールをプシッ!っと開けたところで、だんだん空模様が怪しくなってきて、ポツポツとしてきたかと思ったら、そのうちざんざか夕立になって……。
人生って、こんなもんです。
その昔、額に汗して車をピカピカに磨いている父親に、
「そんなに綺麗に洗っても、どうせすぐ汚れるのにさ、なんでそんなに綺麗にすんの?」
と、言ったことがあります。すると父親はこう言いいました。
「どうせすぐ腹が減るからというて、お前はごはんを食わんのか?」
これと似たような話があります。
その昔、お釈迦さんには多くのお弟子さんがいらっしゃいました。その中に、周利槃特(しゅり・はんどく、チューダ・パンタカ、周利槃陀伽)というお弟子さんがいらっしゃいました。
この周利槃特さん、お世辞にも頭がいいとは言えない方だったようで、覚えが悪い。自分の名前さえも覚えられず、背中に名前を書いた札を貼り付けられていたほどだったそうです。
そんな周利槃特さん、当然お釈迦さんの説法をいくら聞いても覚えられない。それではこれならどう?と、簡単な教えの言葉をお釈迦さんから教えてもらっても、その一文さえも覚えられない。三歩歩いたらもう忘れてしまって、またお釈迦さんのところに聞きに行く始末。そんな頭の悪い自分が情けなくて、いつも悲しんでいたそうです。
一緒に出家していた兄は、そんなおバカな弟を見かねて、
「もうさ、ここから出て、故郷に帰りなよ('A`)」
と、諭した(さとした)そうです。
周利槃特さん、きっと情けなかったでしょうね。精舎の外で佇んで、「もう俺帰るよ」と、一人泣いていると、その話を聞きつけたお釈迦さんが、周利槃特の前にやってきたそうです。
「おいおい、どうしたよ?何泣いてんのよ?」
「おしゃかさま、おれさ、どうしてこんなに、あたま、わるいんでしょ?こんなんじゃさ、おしゃかさまの、でし、なんてもう、むりですよぉ(´;ω;`)」
「おいおい、周利槃特。それは違うぞ(`・ω・´)。自分の愚かさを知っている者こそが、智者なんだ。自分の愚かさから目を伏せて、『俺って賢い(゚∀゚)』って思ってる者こそが、愚者なんだよ。お前はさ、自分が愚かであることを、もう知ってるじゃないか(´ー` )」
それでも、周利槃特さんめそめそめそめそめそめそ泣いています。お釈迦さんは、そんな周利槃特さんに一本の箒を手渡して、
「よっしゃ!じゃぁ、お前はこれからこの箒を持って、今日から毎日、精舎の掃除をしなさい。でね、掃除をしながら、このようにとなえるんだ。
"塵を払わん、垢を拭わん"
これくらいなら、お前にだって覚えられるだろ?」
周利槃特さん、その日から毎日お釈迦さんに言われたとおり、ひたすら掃除をしたそうです。ただただ、毎日毎日、
"塵を払わん、垢を拭わん"
と繰り返しつつ、積もった塵を払い、ついた垢を拭い、ピッカピカにして、そしてまた翌日塵を払い、垢をぬぐい、と何十年も繰り返していたそうです。
ある日、ふと周利槃特さんは思います。
「この塵とか垢ってさ、俺の心のなかの煩悩のことじゃねーの?」
どれだけ綺麗にピカピカにしても、すぐに塵や垢は溜まって行きます。払っても拭ってを何十年と繰り返しても、それでもすぐに塵や垢は溜まって行きます。
「これって、人間の心のなかにある、煩悩、貪欲な心や、怒りの心、愚かな心と同じじゃないか?」
そう思ったそうです。
どれだけ清く正しく生きていこうとしても、どうしても人は欲望に心が奪われる時があります。
どれだけ静かな心を保っていようと思っても、どうしても怒りに心乱れる時があります。
どれだけ知識を身につけても、真理に近づくどころかどんどん遠くなっていきます。
まるで、毎日毎日周利槃特さんが、精舎のあちこちを払い、拭っていた、塵や垢と同じように。
まるで、窓ガラスの汚れと曇りのように。
これこそが、お釈迦さんが周利槃特さんに伝えた教えだったのでしょう。
たった一本の箒と、"塵を払わん、垢を拭わん" の言葉だけで、周利槃特さんは悟りを得ました。
「仏教」とは、その字の通り「仏の教え」です。
そして、その仏の教えとは、「仏に成る教え」です。
「仏」とは、この世の真理に目覚めた人(悟りをひらいた人)のことです。
つまり、仏教は、この世の真理に目覚めようぜ!という教えです。
神仏を崇拝し、拝み、祈り、魂の行き先を人がコントロールすることが、仏教ではありません。宗派によってはそういうこともあるかもしれませんが、私は仏教にとって、それがメインではないと思っています。
周利槃特さんのこの話は、決して「修行をすれば悟ります」といった安易なお話ではないと思うのです。ましてや、この話を聞いたからといって、私が悟ることが出来るわけではありません。悟りの世界の一片を、「味わう」のみです。
そして、この味わいが、自分という存在を理解する枠組みになっていくのかもしれません。
「私の心の中には、いくら払っても拭っても消えることのない、塵や垢が積もっているんだな。」
そう気づけただけで、ちょっと逆に肩の力が抜けませんか?
そして、自分という存在が少し見えてきませんか?
自分を客観的に観ることって、なかなか難しいです。
それは、客観的とする視点そのものが、自分の主観によって構成されているからです。
そこで、仏教どうでしょう?
2500年前から受け継がれ、時代時代の大天才たちが研究し、そして、無数の人たちが「すくい」を聞いてきた教えです。この教えという土台から、自分という存在を理解し、そして、自分の生と死を超えた話を、してみませんか?
慈海のほしい物リスト
いただきものは、全て阿弥陀様にお供えさせていただきます。
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ギフト券は"kuz333@gmail.com"宛で慈海に届きます。
>>こちらからも慈海のほしい物リストをご覧いただけます。
合掌 なんまんだぶ
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